途中末尾きれ

昭和43年05月11日 朝の御理解



 これは誰の句であったかは忘れましたが「目には青葉山時鳥初松魚」と、あんな句があったと思います「目には青葉山時鳥初松魚」とまぁ今頃の季節、季節感というか、そりゃもう十二分に出た句ですね。若葉は青葉の清々しい時期山時鳥の声を耳から聞いて。口で初松魚の味を味わおうというのです。初松魚松魚というのは今が一番おいしい時期なんだそうですね。見る聞くそして口で味わう。私は信心もやはりそういう一つの楽しみですかね、有り難さというかそれをやっぱり味わうべきだと思うですね。
 御理解第62節に「昔から人もよかれわれもよかれ、人よりわれがなおよかれというておるが、神信心をしてもわが身の上のおかげを受けて、後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じこと一段一段進んでゆくのじゃ。にわかに先生にはなれぬぞ」と。にわかには、先生にはなれません。けれどもやはり、段々一段一段信心も進めさせて頂いて、そして先生とまでは言われなくてもね。
 私の信心の師匠、私の信心の手解き者と。導き者としておかげの頂けれるところには、これが皆ならにゃいかんのです。信心の若いまだ分からない人達に、信心のお話がですね、段々出来るようにならなければいけんのです。ここのところでわが身におかげを受けてと、まずというのはねよく言う人がありますよ。まず自分が儲け出さなければ人に話されんとか。自分が特別のおかげば頂かなけりゃ人に話されんとか。
 そういうことじゃないのですね。まずわが身におかげを受けてということは。今私がその、誰かの句を申しましたようにね、「目には青葉山時鳥初松魚」である。見たことでも聞いたことでも、又それを味おうた事でも、その味わいというものが、見たものが素晴らしいと感じたらそれを話したら、わが身におかげを受けた事を人に話すのです。とにかく一遍朝の御祈念にお参りしてごらんなさいと。もうあの雰囲気に触れただけで、もおかげ頂きますよって。
 先日あの小倉の富永さんが初めて、あの先生の車で朝参りをして見えられたんです。初めからあの御祈念の雰囲気に、先生触れられたのです。皆さんが皆この手帳にご理解をまぁ書き止めておられる。先生もやはり書きとめられ。野口さんも書きとめられ、富永さんいわゆる奥さんの方も書かれる。ところが結局は一番信心の若い先生のその書きとめられておる事が、一番素晴らしかったち言うわけ。
 僕はあの、皆のように書かなかった。ずっと聞かせて頂いておったら、はぁこれが、今日のお話しの、いうなら大義だ、中心だ。神様はここを分からせようと思うておられる。親先生はそこんところを力説しておられる。という所を纏めて書いておられるのを見てから、お母さんの野口さんがもうほとほと感心してから、もうやっぱおかげ頂く者は違います頂きどころが違う。というてその言うておられましたけれどもね。
 その第一にですね、親先生の御祈念を一番初めに見て感じられた事が書いてあるね。もうお広前は明かりもついてない。只ご神灯だけそれに私が4時と同時に御祈念の座につかせて頂いて、もうそれに触れただけで感動したと。先生の御祈念が長々と終わったその後に、若先生が5時の御祈念を仕えられて親先生のまぁいうならば静、静かという静かな静かな御祈念に反してあのお広前いっぱいに明かりがパッと点くと同時に、
 若々しい若先生のあの天津祝詞と大祓いのお声を聞いとったらもう愈々心が躍動して来る。静から動へのあの素晴らしさと言う事を書いてある。そして御祈念を頂いて頂くあの御理解。もう本当にあぁいうその御祈念に毎朝お参りが出来る人は幸せだと。言うておられ、又そう言う事を書き止めておられたと言う事で御座います。皆さんはまぁおかげを頂こうと思えばこっちの方に毎日お参りが出来ておかげを頂いておられる。
 どういう風に見、どういう風に聞き、どういう風に御理解を味おうておられるだろうかと。であるならば、富永先生が初めてお参りをされて、そしてそれをまぁ書いてその、親子3人だけじゃない、家族中の者に、まぁその銘々が御理解をひかえておるのを出し合ってから共励をなさる。富永先生が書いておられる事も、そして結局皆が味わえなかった事、聞き得なかった事、そこん所を頂き得ていなかった所をです。
 富永先生はキャッチして帰っておられる。そのことを改めて、富永先生から話を聞かせてもろうてから、おかげを受けたというのです。皆さんこういう体験はお持ちないでしょう。朝の御理解なら御理解を、本当熱心に頂いておりますと有り難い、それをそのままあの人に伝えられるというようなことを。そして、伝える自分も感動しておる。聞く方も聞きながら感動しておる。
 私は昔そういう事がちょいちょいありました。私は頭が大変悪いですけれども、お説教を聞い、とこう心の中に感じたお説教は、私はそのまま、私がお話が昔から出来たんです。もう一時間くらいのお話なら、ちゃんと頭の中に入るです。そして大祭なら大祭のお説教を頂いてから、帰って家族中の者へ話しておりますとですね、もうそれを話された先生よりも私の方が感動してからお話をして。
 聞く者も感動をするわが身におかげを受けて、そして人にそれを伝える。まずわが身の上におかげを受けて、後に人を助けてやる。という事は、私はそういうことでもあると思うのですよ。してみると、日々私は、私が助かっていくという事、わが身におかげを受けるということは、日々それは、目、耳、口の上からおかげを頂いて行くことが出来る。そして後にそれをです、伝える。
 しかもそれが繰り返し繰り返し伝えられて行く所にです、お話やお話のいうならコツとでも申しましょうか、人に聞かせるコツとでも言いましょうか。ね、そういうものが出来て来る時に、聞く者もそれを楽しみに聞きたい事になってくるのじゃないでしょうか。お話をする者も有り難い。しかもそれをお話しをする時にですね感動するというのは、神様の心を自分が頂いてその頂いたそのお心を又聞いてない人。
 未信の人に伝えるのですから、神様が感動ましますのでしょうね。又こちらにその感動が伝わって来る。わが身におかげを受けてということ、特別にです病気が治りましたとか、こういうご利益を受けたとか、ということだけではなくて。まず私は朝の御祈念にお参りをなさっておられる方達は、まず朝の御祈念を、まず目で見らなければいけないと。皆さんあの、静か。私はそれを聞かせて頂いて、確かにそうなんですね。
 静から動への変わって行く合楽の最近の朝の御祈念の雰囲気というか、私は自分で気付いて、あの、わざとというわけじゃないですけれどもね、朝の御祈念をあの終わらせて頂きます時に、柏手を大きく打たない。わざわざも、静かにという意味じゃないです。これはもう私一人の御祈念じゃと思うたら、もう神は大きい音をせんでも聞こえると仰るのですから、もう静かに拍手ね、そういうことが。
 富永先生の目には静、静かとして映ったんでしょうね。そして、5時の御祈念に若先生があの、若さでバリバリした、あの勢いで御祈念をする。そこに静から動への、に移って行く朝の御祈念の雰囲気というものがかもされる。雰囲気がお広前いっぱいに広がる。もうそれに触れただけで、あの勢いのある大祓いを聞いただけで、いわゆる見ただけで、聞いただけでおかげを頂く。
 ね、ですから、朝の御祈念にはお参りしてみらなきゃ分からんということが人へ伝えられるわけです。とても家で拝みよりますなんていうようなことで味わえるはずがないでしょうが。それが毎日なって来るとなれて来る。なれっこになる。当たり前のようになってくる、何故かと言うと自分自身の心の中にさらなものがないからです。自分自身の心にさらなものが生まれてまいりますとね、もう本当にこれは。
 私のいわば感動ですけれども、毎朝の私自身の御祈念の時の私の感動というものは、もう毎日毎日がやはりさらです。もういうならばもう胸がときめくです。内殿に入ります時に。なるほどそういう雰囲気を持って御祈念をさせて頂いて、もしそこにい合わせ、参り合わせてておったら、そのいうなら感動が伝わらないはずがない。何にもない、もう物音一つしない。へぇとただ御神前にぬかづいて御祈念をしておるだけ。
 中から、ね、感じとられるもの。とにかく朝の御祈念にはお参りしてみらなきゃ分からん。一遍お参りしてごらんなさいて。と一遍導かれた人が、ほんになるほど、そうだというものを感じられるようになる。又その人が助かられることになる。目には青葉山時鳥初松魚。ね、見て、聞いて、そしてその御理解を味わうて、そしてそれを、なお又かつ人へも伝えられる。その伝える時の感動は、もう本当にこれは有り難い。
 聞く者も感動、語る者も感動。わが身におかげを受けてということは、私はそういうことであると思う。それを私は、特に最近の朝の御祈念にはです、見せて、聞かせて、味あわせてといったようなものが十分に、私はその気で、朝の御祈念を頂けば、頂くことが出来るという風に思うのですよ。それだけで助かられる。それだけで十分、家にというかね、自分の生活の現場にでも持って帰られる事が出来る。ね、
 それがお繰り合わせを頂いてから、又お話にでもなる時にいよいよ自分のおかげを受けておることを、自分が朝の御祈念によって助かっておる事を、ね、人に伝えてあげれるおかげというのは、又いよいよ感動である。神様が感動ましますのですね。そこからです、にわかには先生にはなれないけれども、段々もう先生になって行く稽古。先生っていうのは、必ず取り次ぎ者という意味じゃないですね。
 あの人に導かれた、ね、あの人の手解きでと、という意味の。ね、ここで私は一つ思わなければならない事はね「口に真を語りつつ、心に真のなきこと」という。「心で憎んで口で愛すなよ」といったようなみ教えを感じます。自分の心に有り難いも何にも感じないながら、それをもし人へ伝えておるとするならですね、それは感動などというものは、もうおよそ遠いものになって来るでしょうがです、これではしかし、自分も助かっておらんのであり、人もそれでは助かりません。
 やはり自分自身がおかげを受けた。本当に、あの雰囲気を見ただけでも有り難かった。その感動をそのまま人に伝えられるものじゃなからなければいけない事は勿論ですね。ですから、何というてもさらな、清々しい朝のこの御祈念の雰囲気を頂くのに相応しい心の状態を持って朝の御祈念には、朝の御祈念に限った事じゃないけれども、そういう心準備とでも申しましょうかね、を整えてからの神様へ向う、御祈念に向わせてもらうと。ね、朝の御祈念を頂く。
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